ジョギング

最近は奥久慈に行けていない。

片道3時間以上のドライブになるので、週末、少しでも家で用事があったり、雨模様だと行くのを躊躇してしまう。

今日は横浜の自宅でジョギングをした。

 

最近、ジョギングが楽しい。走るのが好きなわけではない。

オーディオブックを聞き、考え事をしながら、自然観察しながらゆっくり走る。

 

田舎の庭いじりをはじめてから、横浜にいる時も近所の庭や公園の木々や草花が気になる。どんな木が植られているか、どう剪定してるかじっくり見ながら走る。

マンション暮らしが長いせいか、これまで植物には無頓着だった。

田舎暮らしを強く意識し始めたため最近は植物の本も良く読むようになったし、木々を生き物として愛着もって見るようになった。

 

オーディオブックでは、いろんなジャンルを聞くが、最近はユアルノヴァハラリの本を何回も聞いている。

「サピエンス全史」「ホモデウス・サピエンスの未来」といった本だ。タイトルが示す通り、何万年いや何百万年も昔から、遠い未来までを俯瞰して新たな視座を与えてくれる。

彼の視点は超長期的であるだけでなく、巨視的で多角的だ。

 

これがとても考えさせられる。

農業・林業や田舎暮らしについて考える際、「悠久の歴史の中の自分」という視点が必要になる。いつも大自然が相手だからだ。

田舎では、山の面積を語る時に何町歩という単位の言い方を良くする。1町歩はほぼサッカースタジアムのピッチの面積と同じだそうだ。3町歩とか言えば都会ではものすごい広さだ。でも山ではそれほどの広さではないし、価値も車1台程度ではないだろうか。

「数町歩の山を全伐しませんか?」という問いかけがある時に、金銭的には都会の人が車の買い替えをするか悩むことに似ているかもしれない。しかし、田舎で全伐するか否かは長期的な自然界や社会的な影響が大きく、重い問題で簡単には答えを出せない。

また、田舎では、家に誰も住まず手入れをしないと、数年で家の中までも手の付けられない竹やぶになってしまう。都会とは厳しさが違う。

限界集落で、田舎では今後空き家も増えていく。

田舎の人は、自然とどう向き合うかという長期的で巨視的な視座が求められる。

100年、200年後、田舎はどうなるのか、そのために自分はどんな使命を持つのか?

田舎暮らしで思索すべき内容は深く、最近は難しい本でも興味を持って読める。

 

そんなわけでジョギングしている時間が貴重なものに思える。