この地の歴史

当家にはその昔、1660年頃より数回、水戸光圀公が来訪した記録があり、その茶室跡に碑が建っていて、見学客もやってくる。

ところが、江戸末期の1864年頃には、先祖は、一度この家を捨て相模に居を移し、明治に入ってから戻ってきたと伝えられている。

一度大子の地を離れた原因は、天狗党と諸生党の戦いであった。当家の先祖は諸生党に属し、大子で天狗党が隆盛を極めた時期に大子の地を逃れたのだ。

1860年水戸藩の人達が桜田門外の変を起こした後、天狗党が挙兵し諸生党と交戦し、八溝山まで行っているので、その頃だ)

私は朝井まかての「恋歌」や、伊東潤の「義烈千秋天狗党西へ」等で天狗党と諸生党についての知識を得た。天狗党は実に悲しい出来事で、あの時にこうしておけば・・・という歴史のもしもをつい考えてしまう。

いろんなもしもがあるが、私は幕末に水戸藩の財政が破綻し、水戸藩では武士も農民もひどく貧しかったことが天狗党の挙兵の根本にあったことに思いがいく。

水戸藩徳川御三家の一つであるにもかかわらず、徳川家の本流ではなかった。光圀公を中心に、後に吉田松陰西郷隆盛など幕末の志士に強い影響を与える水戸学をうちたて、哲学的には活躍したが、産業や国政への関与では低く、金銭的にはかなり厳しかったようだ。

 

話は少し変わるが、家の近くの荒蒔城。中世戦乱期に、常陸国佐竹氏と陸奥国白河結城氏が大子町あたりの争奪を繰り返したようで、その争奪争いの場の一つだった。

さて、この佐竹氏、豊臣時代に隆盛を極める。それだけに関ケ原の戦いで豊臣家への忠誠心から徳川家につけなかった。そのために佐竹氏は徳川政権になると秋田に国替えされてしまう。そこに代わりに来たのが水戸徳川家だ。

佐竹氏は関ケ原の戦いで豊臣側にもついていない。徳川家が勝つことを知りながら、手のひら返しができなかったのだろう。

もしも佐竹氏がもう少しうまく振舞い徳川家に媚を打っていれば、江戸時代も常陸国は佐竹氏の領地だったかもしれない。佐竹氏が藩主であれば常陸国は豊臣時代の隆盛を江戸時代にも保っていたかもしれない。

 

水戸徳川家の業績、特に光圀公や斉昭公の活躍には目を見張る。

ただ、大子の地で繰り広げられた戦国時代や幕末の争いに思いをはせた時に、戦国時代の佐竹氏の隆盛と、幕末の水戸藩の財政の厳しさのギャップを感じてしまう。

 

こんなことをこれからも郷土史を勉強して考えていきたい。